これまでの日記

お別れと感謝

2024年04月22日


富士川 切り絵の森美術館を作られた、
はくばくの長澤利久会長が、
3月に天へと旅立たれ、
今日は、お別れの場へと、
感謝をお伝えしに、山梨へと行ってきました。

今まで私の一存で、
みなさんに愛される立派な長澤会長との
奇跡のような出会いや、
宝物のような感謝を、
私が勝手に語ってよいのか、わからず。。
ずっと胸にしまっていたと思います。

もっと、長澤会長に感謝を伝えたかった、
長澤会長の素晴らしさをたくさんの方に
聞いていただきたかった、、と、
後悔の気持ちで、甲府へと向かいました。

私の父は亡くなって今年で十七回忌です。
長澤会長から達筆な、巻物のようなお手紙が
届いたのは、父が亡くなる数日前のことでした。

その手紙には、
NHKの早朝の番組で私や、
一画二驚の光の切り絵を知ってくださり、
「この絵を見られる美術館を、
ふるさとである山梨峡南地区に作りたい。
そう、直感でひらめきました。
あなたの美術館を、山梨に作らせてください」

そんな、信じられないような夢のお手紙でした。
それなのに、32歳の私は、
「私の美術館は、いつか自分の手で、
小さな美術館を、自分の縁の地に作ってみたい」
そう思い、
病床の父にも、長澤会長のお手紙を見せながら、
「お断りしようと思う」 そう話しました。
すると父は、「お父さんは、このお手紙を見て、
とても誠実な方と思うなあ。」と言いました。

それから幾度も、
愛媛、高知、愛知、各地への光の切り絵展へ
足を運んでくださり、
故郷、山梨、峡南地区への想いを、
力強くもやさしい眼差しで、
私に話してくださいました。

“はくばく” という、
社会貢献にも力を入れられた、
素晴らしい会社を大きくされ、
そして、息子さんの代へとバトンを渡され、
「第二の人生、故郷のために。」
その真剣なまっすぐな熱い想いに、
私は会う毎に、長澤会長のお人柄に、
惹かれてゆきました。

その想いを知れば知るほど、
その願いの実現のパートナーとして、
私で、光の切り絵でいいんだろうか。。
1年経っても、首を縦に振ることが出来ず、

そんな中、
「ダイヤモンド富士🗻を見に来ませんか?」と、
年末にお誘いいただき、
富士の山頂から登る朝日、
美術館を建てる予定の場所、
「必ず、光の切り絵を大切にします」
とまで、こんな頑固な小娘に目を見て、
力強く言っていただき、

その時に、ひとつの案がひらめきました。
「切り絵の美術館、というのはどおでしょうか。
そして、私にもぜひ、その美術館で展覧会をさせてください!」

晴天の冬空の下、
長澤会長、
今の切り絵の森美術館の館長、篠原さん。
私の友人そして信頼なる先輩として
付き添ってくれた設計士の川口亜稀子さん。
四人ともが、ひとつ目標の光を見つけた
気持ちになり、
「その道で進んでみよう!」と、
握手を交わしました。

それから一年半、
「富士川 切り絵の森美術館」はオープンし、
今年で17周年を迎えます。

長澤会長があの日約束してくれた通り、
ずっと光の切り絵を大切に思ってくださいました。
今、光の切り絵常設ルームがあり、
5点の一画二驚作品を毎日ご覧いただけます。

そして、切り絵という文化の発信地にもなり、
「切り絵国際コンクールin身延Japan」も、
4年に一度開催され、
切り絵を愛する作家さんたちの
交流の場となっています。

長澤会長が願った、
「故郷へと人が集まるそんな魅力を、作りたい。」
そんな場所へと、
切り絵の森美術館が育まれました。

私自身も、この場所で、
多くの素晴らしい出会いをいただき、
長澤会長のあたたかな応援を翼にして、
今も、各地へと切り絵の旅をしています。

感謝の言葉は、とても伝えきれていません。

その感謝は、
切り絵の森美術館にかかわる作家の一人として、
良い作品を作れるように成長をしてゆく事と思っています。

「山梨の切り絵の森美術館にいくと、
いつも光の切り絵が見られるよ」
そんな風に足を運んでくださる人が、
増えるよう、頑張ってゆきたいです。

長澤会長は、いつ会っても、
どんな時でも、心が美しく大きく優しい方でした。

そんな長澤会長に見つけてもらった事が、
光の切り絵の誇りです。